2021年4月5日月曜日

黄金比

②「ヒトを植物としてみることで顕れてきた背骨における黄金比」

自然堂鍼灸療術院院長 大竹秀信



ヒトの身体についての基礎医学のひとつに形態学がある。一般的には解剖学と呼ばれている。形態学もまた細分化されているが、ヒトについての場合、その範囲はヒトであることはもちろん当たり前の話だ。

鍼灸師である私が学んだ解剖学もヒトについての解剖学であった。ヒトとしてヒト社会の中で、ヒトに対する施術を生業とするわけだから、学ぶ解剖学もヒトについてのみなのは当たり前の話だ。

だが、他の解剖学とは少し違った視点から生命を思考する解剖学がある。

それが比較解剖学である。

比較解剖学は、解剖学や発生学に基づく生物学の分野のひとつで、基本的には、個々の生物の解剖に基づき、他の生物のそれと比較することによって、その体制などを体系づけ、生物学的な知見を得ようとするものである。

ヒトだけでなく、動物や植物、はては古代の生物の化石まで、様々な生き物を比較し、その相違相同を探求してゆく、学問的成立期のルネサンス時代のままに、自然科学の基礎的視点に立つ解剖学が比較解剖学である。


解剖学者であり発生学者である三木成夫先生の比較解剖学的な動物と植物についての考察に目から鱗が落ちた。

比較解剖学者としてのゲーテに影響を受けた三木先生の、視点、論理の展開、そして文章の表現はもちろんのことながら、何よりもそれによって浮かび上がる動物と植物の違いとそれぞれの特徴、特に植物と動物のそれぞれにある概念の違いに納得せざるをえなかった。


植物は種から芽と根、動物は内部細胞塊から頭と尾が出るという全く同じ形になるが、方向が違うというのだ。


植物は上下の概念である。

植物は自然界にあるものをそのまま取り入れて、自然界にある形のまま出すことができる。故に、物質だけをみると植物と世界の境界はなく、植物の根は大地全体、植物の葉は天全体とみることができる。

植物はこの星の中心に向かう力、つまり重力のベクトルに沿ってそのカラダを為し、枝や葉や実のあり方は宇宙の螺旋の法則である黄金比に沿う。

また、動物において、酸素と栄養を送る循環器系ではその中心が心臓で、それゆえに心臓が停止すると死が訪れたるならば、太陽光によって光合成を行う植物における心臓は太陽といえる。

それゆえに、植物は、宇宙の法則の縦糸と横糸で作られた織物にピタリとはまる模様のように完璧である、というわけだ。


一方、動物は、移動するが故に上下の概念ではなく、進行方向側とその反対側という概念。

進行方向側が頭部、その反対側が尾部となる。

また、移動するが故に大地にアシをつけなければならず、アシを着く側を腹側、その反対側を背側としている。

内部構造をみても、上下の概念である植物は中心と同心円状に内部構造をなし、頭部尾部腹側背側の概念である動物は内部構造が腹側に内臓を、背側に筋などが集まるように分かれている。


ヒトは紛れもなく動物である。

しかしながら他の動物とは、その生態も形も明らかに異なり、いわば動物界の変わり者である。

動物の中でヒトだけが直立二本足歩行の形をしている。それゆえに重力の影響による身体への負荷がかなりある。例えば、産道が狭くなり胎児の頭蓋骨が固まる前の未熟児の状態からでないと出産できないことであるとか、貧血、肩こり、腰痛、痔、などヒトにしかみられない重力の影響による疾患を抱えている。

しかし、直立2本足歩行の形ゆえに、動物の中でヒトだけが、前肢後肢ではなく上肢下肢ということに代表されるように上下の概念をその身体に持つのだ。

また、鍼灸の基礎を為す気の概念では、気が下から上、上から下へと移動することでその性質が変わったりする、というように上下の概念があり、また臓腑から身体全体への流れる気の通り道である十二経経絡は上下に流れる。


そうなのだ。動物の中でヒトにだけ植物の概念である上下の概念がある。


そこで私はふと思った。

ひょっとしたらヒトは、動物界で最後に生み出された兄弟として、もう一度植物に近づこうとした始まりの動物なのではないか、と。


生命が発生し、在り方を模索して植物と動物にわかれたが、ヒトは移動することで栄養を得ることを選択した動物から、もう一度、宇宙的法則にのっとった完璧な生物である植物へ移行しようとした最初の動物なのではなかろうか?

だとしたら、ヒトの身体を、動物としてではなく植物としてみた場合、どのようなことが考えられるのか?


まずは手始めに骨格から検討を始めてみた。


植物の枝や葉は黄金比に沿って出ている。

出る枝の本数や太陽光を効率よく受けるように、起点の葉や枝から約1.168周した場所から次の葉や枝が出ることがよく知られている。

また、

https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html


黄金比はφ(1+√5)÷2で表される。比率で表すと1:1.1681.....。それを数列化したフィボナッチ数列では0,1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,145,234.....。となっていく。


ヒトを植物としてみると、体幹部から出る上肢と下肢は枝といえる。最初の枝は下肢であり、次の枝は上肢である。

下肢と上肢は体幹部側面のほぼ同じライン上にあり、植物と同じように黄金比に沿って出ているのだとしたら、いったい何回転の螺旋がその間にあるのだろうか?

計算はいたってシンプルで、同じライン上になるということは整数倍になるということになる。黄金比は無理数なので完全に整数になることはないが、1.6180339……を倍数にしていって整数に近い値を求めてみた。

結果は、13倍数が最小の倍数で21.0344418…..となり、最小で21周すると起点とほぼ同じライン上にくることがわかった。


ここで21という数字に着目してほしい。この数はフィボナッチ数列の中にある数字である。これは偶然なのか?はたまたそこには何かが隠されているのか?

答えは後者である。数字には嘘や理念や感情はなく、物事に偶然はない。


通常、解剖学的な身体の部位の高さは椎骨つまり背骨などの位置で表すことが多い。例えば、腎臓の位置は第11胸椎から第3腰椎の高さにある、といった具合である。

ヒトにとっての枝である上肢と下肢の位置はどこにあるのか?

上肢、下肢の位置を椎骨で表すとどうなるかというと、上肢の基部は肩甲上腕関節がある高さであり第3胸椎あたりになる。下肢の基部は股関節のある高さであり仙骨尾骨境界線のあたりになる。

つまり最初の枝である下肢は仙骨尾骨境界線の高さ、次の枝である上肢は第3胸椎の高さから出ることにある。

では、その間にある椎骨の数はどうなっているだろう?

3胸椎から第12胸椎までは10個、腰椎が5個、仙骨は元々仙椎がひとつになったものなので5個、の合計20個あることになる。


次に頸部と頭部を植物的に考えてみた。

植物は上方にいくにしたがって先端は鋭利になっていく、それは高さのある生き物として重力の影響を考えると当然の形だ。

では、ヒトの首はというと、全部で7個ある頸椎のうち、第一頸椎は輪状の構造で、第一頚椎の椎体部分が第二頚椎にくっついて歯突起という尖った形になる。

頚椎を植物的にみたら、第二頚椎が一番上方の先端の形だとすると植物の形と同じになる。

そこで、第一頚椎は頭部の骨のひとつとしてみた。

また、臨床の授業などで身体のランドマークとしての第七頚椎の棘突起を触察する際には、頭を前に倒した状態で左右に顔を向ける動作をした時に動くのが第七頚椎棘突起、その下の動かないのが第一胸椎と教える。

実際、私もそう教わったのだが、ここであることに気が付いた。

何かが動くためには、動かない所、つまり基部が必要になる。基部が固定されているから他の場所が動くことができる。

そこで、第一胸椎は頚椎の基部で頚椎の一部で、第二頚椎から第一胸椎までを頸部の骨としてみた。


そのように分類してみると、第二胸椎だけがどこにも属さないことになるから、第二胸椎が頸部と体幹部の境界線なのでは?と考えて、頭部、頸部、体幹部、尾部を上下のラインだけでわけてみると、

頭部は、頭頂骨、前頭骨、蝶形骨、後頭骨、第一頚椎、で五個の骨。

頸部は、第二頚椎から第七頚椎、第一胸椎、第二胸椎、で八個の骨。

体幹部は、第二胸椎から第十二胸椎、第一腰椎から第五腰椎、仙骨は元々分かれていた仙椎がひとつになっものなので第一仙椎から第五仙椎、で二十一個の骨。

尾部は一個から三個といわれているから、一個か二個か三個の骨。

と、それぞれの部位の骨の数が

頭部は五個。

頸部は八個。

体幹部は二十一個。

尾部は一個か二個か三個。

となり、その数が全て黄金比の数列化したものであるフィボナッチ数列の数字と見事に重なるという驚くような結果になった。


数は嘘をつかないし、偶然などはない。

そこにどんな意味があるのかはこれからの探求によって色々と明らかになっていくだろう。そこから得たヒントによって様々な応用が見つかるかもしれない。

私自身、身体への螺旋を利用した手技や、病気というものを植物的か動物的かで単純に分けてみてみるなど、得られたものをヒントに様々な応用を模索している。


ヒトの身体を植物的にみた場合、頭部、頸部、体幹部での頭骨と椎骨の数がフィボナッチ数列に全て重なり、ヒトもまた黄金比に沿っていることが顕れた。

ヒトは、社会という枠を作り自然から遠く離れた存在に思いがちだが、ヒトの内にも自然界の法則がまぎれもなく息づいていることは、自分たちが確かに自然の一部なのだと再認識、というよりは、やはりそうであったのだと思うことができる事象なのではないだろうか。

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